巻物語

意外な歴史や知られざるミステリー、昔話など、各地で語り継がれる物語を発掘

vol.02

2016.01.05

超巨大ミステリー!一皇子神社

石巻駅から歩いて20分くらい、

白い円盤型の石ノ森漫画館を右手に眺めて橋を渡ると、

湊(みなと)と呼ばれる地区に出ます。

ここに、かなーりビッグな伝説を持つ

一皇子神社(いちおうじじんじゃ)があることをご存知ですか?

後醍醐天皇の息子である護良親王(もりながしんのう)を祀った神社ですが、

石巻に伝わる説が事実なら、

日本史をひっくり返すほどの大事件と言われています。

道路に面して建つ朱色の鳥居

知らないと素通りしてしまいそうな小さな朱色の鳥居

鳥居をくぐり、山肌の奥まったところにある小さな神社。ここに、ものすごい伝説が!

鳥居をくぐり、山肌の奥まったところにある小さな一皇子神社。ここに、ものすごい伝説が!

 

【護良親王の死をめぐるミステリー】

舞台は1300年代。

足利尊氏(あしかがたかうじ)と共に鎌倉幕府を倒し、

天皇が直接政治を行う天皇親政をしいた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)。

その息子・護良親王(もりながしんのう)も共に戦いましたが、

ときどき勝手なことをしたり、足利尊氏とも仲が悪いなど、

いろいろあって鎌倉へ。

ここには尊氏の弟である足利直義(ただよし)がいて、

彼の監視下で土牢に閉じ込められ生活するという

不遇の皇子となりました。

『太平記』という古い書物によれば、

護良親王の最期は足利直義の命令で、

淵辺義博(ふちべよしひろ)という家臣に首を斬られ、

死んでしまったということになっています。

 

しかーし!

石巻市民の中には、

こんなことを言う人がたくさん存在するのですよ。

 

「護良親王が鎌倉で死んだなんて嘘だっちゃ

本当は、石巻に逃げてきたんだからぁ~。」

 

もちろん王道の日本史では、

護良親王と石巻のつながりなどどこにも出てまいりません。

しかし石巻の湊地区にはたしかに、

あながち嘘とも思えぬ数々の証拠

存在するのであります!

太平洋につながる旧北上川の河口。写真の左側が湊地区

石巻駅方面(右側)から湊地区(左側)へつながる橋の上から旧北上川の河口を望む

 

 

【地名に刻まれる皇子の足跡】

キーマンは、なんといっても

護良親王を殺害したと言われる淵辺義博(ふちべよしひろ)さんです。

石巻説によればこの方、主君に命じられたものの、

護良親王を哀れんで、殺さずこっそり逃がしたとか。

鎌倉からいったん、自分の領地であった相模原へ。

そこから船で、当時は牡鹿湊(おしかみなと)と呼ばれた

現在の石巻、湊地区へと海を渡ってきたのであります。

ちなみに淵辺義博さんについては、こんな泣かせる記述もあります。

【主君の命に背いた義博は、妻子に害が及ぶのを恐れ、その縁を切り、現在の相模原市と東京都町田市との境界を流れる境川にかかる橋(別れ橋)のたもとの榎木の下で妻子と別れた、と伝えられている。橋は後に架け替えられ、現在の中里橋となったが、たもとに残る榎木は「縁切り榎木」として、今日まで残っていると伝えられている】~淵辺義博Wikipediaより~

また、その頃の石巻は葛西氏という

「南朝派(後醍醐天皇が興した朝廷)」の当主に支配されていたので、

護良親王の保護をお願いできたと言います。

この話を裏付けるように、湊地区には今もなお、

【御所の浦(ごしょのうら)】(護良親王が海から上陸したと言われる辺り)

【御所入(ごしょのいり)】(護良親王の住居があったとされる地域)、

【吉野町(よしのちょう)】(父・後醍醐天皇の『南朝』があった吉野にちなんで)

などなど、皇室がいたことを示す地名がたくさん残っています。

 

【近隣には関係社寺もぞくぞく】

つまり一皇子神社とは、

表向きは鎌倉で死んだとされながら、

実はその後も生きていて、

石巻で静かに暮らしたとされる護良親王を祀ったもの。

そして近隣には、

【熱田神社(あつたじんじゃ)】【朝臣の宮(あそんのみや) 】といった

伝説を裏付ける建造物もあるんです。

 

【熱田神社】とは

護良親王一行が、鎌倉から海を渡って石巻を目指す途中、

嵐に巻き込まれて難破しかかった際、

熱田神宮に祈ったところ暴風雨がおさまったことから、

石巻に到着後、感謝を込めて建立したと言われる神社です。

津波の影響で何もなくなってしまった辺りに社殿だけが残る熱田神社。石柱は倒れたまま

江戸時代には航海の守護神として崇められた熱田神社。震災後は鳥居が倒れたまま

 

倒れたまま置かれている石板

石板には熱田神社の文字が

 

また【朝臣の宮(あそんのみや)】は、

鎌倉から護良親王を守って共に石巻へやってきた家臣たち、

日下、日野、比羅塚、福原、遠山、志摩、岡本、淵辺の

8人の霊を祀ったものと言われます。

現在も、石巻にはこれらの姓を持つ旧家が残り、

一皇子神社の神官も日野姓であります。

旧社殿は津波で破壊され、伊勢神宮から新社殿を奉納された朝臣の宮

津波で周りの建造物はほとんどなくなってしまったが、ここだけ健在。社殿が新しくされた朝臣の宮

 

さらにさらに、これだけではありません!

一皇子神社の近くにある【多福院(たふくいん)】というお寺には、

吉野で亡くなった護良親王の父・後醍醐天皇を弔う

【吉野先帝御菩提碑(よしのせんていごぼだいひ】だってあるんですよ!

皇室の菊家紋がほどこされた門の奥に祠がある

多福院の敷地内にひっそりとたたずむ後醍醐天皇の菩提碑。皇室の菊家紋がほどこされた門の奥に祠がある

 

多福院にある平塚家の墓碑。一皇子伝説についても書かれている

多福院の隣にある慈恩院(じおんいん)には、護良親王を守り、鎌倉からやってきたと言われる家臣のひとり、平塚家の墓碑もある。一皇子伝説についても書かれている

 

のちに、伊達藩主や皇族の方々も参拝に訪れているという一皇子神社……。

この小さな杜に潜む真実、あなたはどう思いますか?

護良親王の墓と言われる盛り土。一皇子神社の社殿の裏にある

護良親王の墓と言われる盛り土。一皇子神社の社殿の裏にある

 

出展:『いしのまき散歩』(二佐山連著)、『石巻まるごと歴史探訪』(石垣宏書)、『宮城県の地名』(日本歴史地名体系4)、『石巻の歴史 第一巻』

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