巻物語

意外な歴史や知られざるミステリー、昔話など、各地で語り継がれる物語を発掘

vol.4

2016.03.31

命と勇気の産婦人科医・菊田昇医師

 

石巻新聞と石巻日日新聞の二紙に掲載された広告

1973年(昭和48年)4月17日と18日、石巻の新聞2誌が上の小さな広告を掲載しました。

そのことが翌日には、全国版の新聞の社会面トップで取り上げられ、

『命の議論』を巻き起こすきっかけとなったのです。

 

広告を出したのは、石巻で産婦人科を開業していた菊田昇医師(当時46歳)。

産婦人科医が独断で、生まれたばかりの赤ちゃんを他人に譲渡する。

しかも「わが子として」という内容には、法律違反の疑いがありました。

菊田医師はそれを承知の上で、これまでにも何度か

望まれずに生まれてくる赤ちゃんの里親を急募するため、

新聞広告を出していたのです。

 

【救いを求め、石巻を目指した女性たち】

思い悩むうちに中絶可能時期(当時は妊娠7カ月末まで)を過ぎ、

妊娠末期になって「子どもをおろしてください」と訴える女性たち。

その多くは、レイプや不倫の末に、彼女たちが負うことになった命でした。
どの病院でも断られ、膨らんでいくお腹に追い詰められた女性たちの中には、

「ひそかに生んで、自分で殺すしかない」と考える者も。

実際、駅のコインロッカーやスーツケースの中から

嬰児の遺体が発見されるなどの事件の多くがこのケースと考えられています。

 

「石巻の菊田医師なら助けてくれる」

 

せっぱつまった状況下でそんな噂を聞きつけ、

全国から暗い事情を持つ女性たちが、人目を忍び、菊田産婦人科を訪れました。
医師は彼女たちを説得し、

自分の産院で産み捨てることを提案。

女性たちの多くは「出産した」という事実が記録に残らないのならと、

すべてを菊田医師にゆだね、お腹の子を殺さず、産む選択をすることができました。

 

そのため菊田医師は、生れてきた子どもは、

子どもをほしがっている人の「実子」として斡旋、

戸籍上は養母が生んだ子として届ける、

虚偽の養子縁組を続けなければならなかったのです。

震災の数年前まで、菊田産婦人科があった場所は、現在コンビニエンスストアに。JR石巻駅から歩いてすぐ

かつて菊田産婦人科があった場所は、現在コンビニエンスストアになっている。この道を誰にも言えない重い事情を抱えた多くの女性たちが、全国から菊田医師を頼ってやってきた

 

【法律を犯しても、子どもの命と母親を救う】

菊田医師はかねてから、この行為を自分ひとりが隠れて行うのではなく、

産婦人科医なら誰もが知っているはずの暗い実態を世間に訴え、

法律改正の是非を問いたいと考えていました。

そこで、影響力のある全国版の新聞が直接取材にやってきたとき、

社会面トップで報じることを条件に告白。

今までに、虚偽の養子縁組を100件以上も行ったと話したのです。

 

案の定、テレビや新聞、雑誌では連日、賛否両論が巻き起こりました。

その結果、菊田医師は医師法違反で優生保護法指定医取消。

医業停止6か月の処分を受けることとなりました。

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賛否両論の記事を載せる各誌

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【世界が認めた菊田医師の正義】

しかし世論は、菊田医師を称賛する声が圧倒的だったのです!

 

その後も子どもたちの命を救うため

「実子特例法」の制定を訴え続けた菊田医師のおかげで、

1989年には「特別養子制度」が民法改正で新設。

養子の戸籍に「長男」「長女」などと実子と同じように記載できる法律で、

これは日本の民法上、画期的なことでした。

 

さらに1991年には、第2回目となる『世界生命賞』を受賞。

この賞の初代受賞者は、あのマザー・テレサです。

 

【信念の奥にあったもの】

人の心を動かし、法律までをも変えさせた菊田医師の勇気と行動。

その背後には、学生時代に愛読した聖書の教えがあったと言われています。

菊田青年が産婦人科医になった経緯をある本では次のように記しています。

 

「そもそも、菊田医師が産婦人科医の道を選んだのは、

当時『ベビーブーム』と『人工中絶自由化』の影響で景気がよかったからだった。

高額所得者の常連となり、人工中絶は重要な収入源となった。

ところが、良心まで偽ることはできなかった」

(「石巻圏 20世紀の群像』より)

 

人工中絶は罪と指摘する聖書の教え。

そのため、菊田医師も産婦人科医になってしばらくは、

聖書に背を向け、信仰を手放したと話しています。

しかし「神がどこかで中絶する私の姿を悲しい目で見つめているのではないか」(同書)

と考えるようになり、罪滅ぼしのため、残りの人生は子どもの命を救うために使うと決意しました。

菊田医師が雑誌『婦人公論』に掲載した寄稿文

菊田医師が雑誌『婦人公論』に寄稿した文章。すべての中絶を否定したのではなく、医療の進歩により、当時中絶が合法とされていた妊娠7カ月の胎児には、母体外生存が可能と主張。中絶可能時期を短くするべきだと意見した

 

また、中絶を免れやっとのことで生まれてきても、

障害があったり肌の色が違うことで里親が見つからない子どもたちもいました。

その行き先として菊田医師はたびたび、

あるアメリカ人宣教師の夫婦を頼ることに。

彼らは実子のほかに何人もの養子を育てていて、

どんな子でも喜んで引き受けると言ってくれたのです。

そのアメリカ人宣教師の言葉にも、菊田医師は大きく影響を受けました。

 

「前科何犯の凶悪犯の子どもでも、もちろん結構です。

なぜなら、すべての子どもは生まれたときは神によって与えられた

清浄な真っ白い心で生まれてくるからです。

その心が悪くなるのは社会が悪に染め、

それを父母の愛がぬぐってやらないからです。(中略)」

 

彼らの存在によって、

菊田医師の信念は次のように揺るぎのないものとなったのです。

「私は彼の言葉の中に赤ちゃんの幸福とは何か、

真の親とは何か、養親の資格は財産、地位、名誉よりも

この子に変わらない愛をそそぎ、育てる人間こそ

赤ちゃんにとって最もふさわしいことを教わった」

 

石巻の小さな産院で、救われた命は実に220人以上。

子ども達は日本全国、海外の里親にももらわれていきました。

菊田医師の手記には、そのうちの1人と偶然、会うことができた時の感動も記されています。

「アメリカへ生き、帰路、ハワイに立ち寄り、

”あけみ”ちゃんと会うことができた。

空港で3歳になった彼女が、

私の頬に何回もキッスをしてくれた時、

思わず涙がこみあげるのを感じた」

 

まずは「命あっての物種」

ただただ幸せを祈り、捨て身で命を救い続けた菊田医師の献身。

「あの時の命」の多くは今や立派な大人になって、

世界中で生かされた人生を謳歌しています。

菊田昇医師。1991年「世界生命賞」を受賞した4カ月後に、癌のため他界した

菊田昇医師。1991年「世界生命賞」を受賞した4カ月後に、癌のため他界した

 

※上記「」内の記述はすべて『手記 この赤ちゃんにも幸せを』より抜粋

参考文献:『手記 この赤ちゃんにも幸せを 菊田医師赤ちゃんあっせん事件の記録』、『石巻圏20世紀の群像』ほか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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